定番の裏側 一皿の物語 食の旅日記
三角茶屋 豊吉うどんの海老天うどんと、牛肉をのせた小丼。緑のトレーに並ぶ
一皿の物語

豊吉うどん。宮崎うどんはなぜ柔らかいのか

2026.09.12 ・ 読了 10分 ・ 文:KOTOHARE編集部
🗾地方の名店を知る📖日本の食文化を知る🍻飲み会で話したい雑学

曇りだった。

宮崎市大坪東、幹線道路沿い。空はひと色の灰で、影というものがどこにも落ちていない。その光の下に、三角の屋根がひとつ立っていた。

屋根というより、屋根の形そのものが看板になっている。切妻の正面に切り文字で「三角茶屋」。下に瓦の庇が長く伸びて、入口の脇に青いのぼりが一本、風のない空気のなかで垂れている。うどん屋という業態にしては、ずいぶん大きい。

三角茶屋 豊吉うどん本店の外観。曇り空の下、切妻の三角屋根に「三角茶屋」の切り文字が掲げられている
宮崎市大坪東の本店。三角の屋根がそのまま屋号になっている

正直に書くと、筆者はうどんに関して長いあいだ、ひとつの物差ししか持っていなかった。コシである。噛んで返ってくる強さが麺の善し悪しを決める、と思っていた。讃岐で覚えた尺度を、そのまま全国に当てはめていたことになる。

その物差しが、この店の丼の上で一度折れる。

三角屋根の「三角茶屋」。のぼりの立つ入口をくぐる

駐車場に面した一角に、柱のような細長い看板が立っている。白地に黒の筆文字で、縦に「豊吉うどん」。その右上に、藍色の楕円で抜いて「三角茶屋」。

「三角茶屋 豊吉うどん」と書かれた白地に黒文字の柱看板
藍の楕円に「三角茶屋」、その下に大きく「豊吉うどん」

屋号がふたつ並んでいる。この店は昭和7年(1932年)に「三角茶屋」として始まった。1960年代、幹線道路の整備にともなって店を移した際に「三角茶屋 豊吉うどん」と名を改めたと伝わる。看板に残る二段構えは、その経緯がそのまま形になったものだ。

扉を開けて中に入る。木の大きなテーブルが並び、緑のトレーが積まれている。セルフサービスで、注文して、受け取って、席に運ぶ。

そして、壁で目が止まった。

色紙である。額に入った色紙が、壁の一面を埋めている。ひとつやふたつではない。縦3段、横3列、さらにその先へ。どれも野球選手の写真つきで、ユニフォームはオレンジと黒。読売ジャイアンツだ。

うどん屋に入ったつもりが、いきなり球団の歴史みたいなものと向き合うことになった。この壁の話は、あとでする。

海老天うどん。箸で持ち上げた麺が、たわむ

頼んだのは海老天うどんと、小丼をひとつ。緑のトレーに、黒い丼と小さな丼が並ぶ。氷の入った水のコップ。木のテーブル。それだけの卓だ。

うどんのつゆは、澄んでいる。醤油の色はごく薄く、琥珀に近い。関東の黒いつゆを見慣れた目には、出汁がそのまま器に張ってあるように見える。豊吉うどんのだしは、いりこ、昆布、かつお節。そこに宮崎県内の醤油蔵の淡口醤油を合わせる。この配合は創業から90年以上、変えていないという。

海老天は、衣が大きく広がっている。天ぷらというより、薄い衣の傘が海老に被さっているような形で、尾だけが縁からのぞく。つゆに沈んだ側から、衣はもう溶けはじめている。上には青ねぎがたっぷり。

箸を入れて、麺を持ち上げた。

箸で持ち上げた豊吉うどんの麺。太めで角のある断面をしており、重みでゆるやかにたわんでいる
持ち上げると、麺は自分の重さでたわむ

たわんだ。

持ち上げた麺が、まっすぐ立たない。箸から下がった部分が自分の重さに負けて、ゆるい弧を描く。断面は太めで、角がはっきり残っている。細くもなければ、頼りない見た目でもない。それなのに、垂れる。

讃岐の尺度で来た人間は、ここで一度つまずくと思う。筆者もつまずいた。太さも角もあるのに反発がない、という組み合わせが、頭のなかの分類に存在しなかったからだ。

これは「コシが足りない麺」ではない。コシを目指していない麺である。目指す先が違うものを、同じ物差しで測っていたというだけの話だった。

小丼のほうは、白い飯に甘辛く煮た牛肉をのせたものだった。肉は薄切りで、色の濃い煮汁をまとっている。うどんのつゆが薄い色をしているぶん、この小丼の茶色がトレーの上で対比になる。

この組み合わせ自体が、宮崎のうどんの性格をよく表している。うどんは単体だとタンパク質が少ない。だから宮崎では、魚のすり身を揚げた「天ぷら」をのせたり、飯ものを添えたりして補う。安く、腹が満ちて、朝から入る。そういう設計思想が、トレーの上に並んでいる。

宮崎うどんはなぜ柔らかいのか——朝うどん文化が選んだ麺

ここから少し、丼を離れる。

多加水と、二度茹で

柔らかさには、作り方の理由がある。

ひとつは多加水麺であること。生地に入れる水の割合が多い。もうひとつが、茹で方だ。うどんを研究する竹之山愼一氏によれば、宮崎では「二度茹で」が広く行われていて、1回目の時点で100パーセントまで茹で上げてしまう店が多いという。つまり、客の注文が入ってから湯に通す2回目は、温め直しに近い。麺は、そこですでに柔らかくなりきっている。

讃岐が麺に塩と足踏みで力を蓄えさせるのとは、工程の向きが逆だ。片方は反発を作り、片方は反発を抜く。どちらも意図された結果で、失敗ではない。

朝うどんから、シメうどんまで

では、なぜ反発を抜く方向に進んだのか。

竹之山氏は、労働者が多く集まる町でうどん文化が発展した結果だと説明している。福岡と同じ構図だ。朝早くに働きはじめる人、夜遅くまで働く人。その両方が、腹に入れて仕事に戻れるものを求める。噛む力を要求しない麺は、その場面で強い。消化にも軽い。

宮崎のうどん屋が朝から開いているのは、この流れの延長にある。さらに車社会が郊外型の店を増やし、飲み屋街で夜通し働いた人がそのまま朝うどんに流れるコースもできた。夜の終わりと朝の始まりが、同じ丼でつながっている。

ちなみに、宮崎のうどん店の数そのものは全国9位である。人口10万人あたり21.40軒、県全体で229軒(タウンページ2021年)。1位の香川県は50.16軒だから、密度でいえば倍以上の差がある。宮崎が特別なのは店の数ではなく、開いている時間帯のほうだ。朝6時から夜まで、うどんが日常のどこにでも置かれている。

県内最古とされる大盛うどんは、大正2年(1913年)の創業。徳島から移り住んだ久米房吉が始めた店で、こちらも柔らかい麺で知られる。宮崎の「やわ麺」は、一軒の個性ではなく、県の共有財産のような位置にある。

麺のかたさをめぐる考え方の違いという意味では、ざるラーメンとつけ麺の違いも似た構造をしている。同じ材料でも、どんな食べ方を前提にするかで、行き着く形はまったく変わる。

豊吉うどんの歴史。50歳で店を開き、97歳まで立った男

その朝うどんの文化を、いちばん早い時間帯から支えてきた店のひとつが、ここである。

鐘紡の工場前、朝6時の一杯

創業者の名を、奥野豊吉という。明治17年(1884年)、武士の家に生まれた。

うどん屋を始めたのは、50歳のときだ。昭和7年、宮崎市中村町に「三角茶屋」を開いた。旅先の大分で食べたうどんに感銘を受けたことがきっかけだったと伝わっている。

50歳での開業、という数字がまず引っかかる。当時の平均寿命を考えれば、隠居を考えてもおかしくない年齢だ。そこから新しい商売を始めている。

場所の選び方も、はっきりしていた。鐘紡の製糸工場の目の前で、市場も近い。そして朝6時に開けた。狙った客は、市場で働く人と、これから工場に入る人である。夜明け前から動いている人たちが、仕事に向かう途中で腹を満たす。そのための店だった。

柔らかい麺は、この客層とまっすぐつながっている。まだ完全に目の覚めていない体に、噛む労働をさせない。熱いつゆと一緒に流し込んで、そのまま持ち場へ向かう。宮崎の朝うどん文化がどこから来たのかという問いに、この店の立地と開店時刻が、ひとつの答えを出している。

評判は「安くて、うまくて、盛りがいい」。この三つは今も店の看板文句として残っている。作家の川端康成や檀一雄も食べたと伝えられる。

「百才」という店名

戦争で、一人息子を亡くしている。

跡を継ぐはずだった人がいなくなったあとも、豊吉は店に立ち続けた。そして昭和50年(1975年)、大坪に新しい店を出す。このときつけた名前が「百才・豊吉うどん」だった。

100歳まで、うどん屋をやりたい。

そういう意味だという。90歳を超えた人が新店の名前に自分の目標を入れる。しかもその目標が「引退」ではなく「まだ10年やる」である。

この店名を知ってから、三角屋根の建物の見え方が少し変わった。あれは老舗の風格を演出した建物ではなく、100歳まで働く前提で建てられた仕事場なのだと思う。

豊吉は97歳で亡くなった。亡くなる直前まで、店に出ていたと伝えられている。100歳には3年届かなかった。

曾孫の代へ

店は、孫の千枝子さんが2代目として継いだ。3代目は、その息子で曾孫にあたる和一郎さん。現在、宮崎市内に8店舗を構えている。

だしはいりこ、昆布、かつお節。鉄釜で、朝の暗いうちから取る。創業から変わっていない。本店の開店は、今も朝6時である。

老舗というものが、ただ古いだけでは続かないことについては、100年続く飲食店は、一度死にかけているのほうでも書いた。豊吉うどんの場合、跡取りを戦争で失うという断絶が、その「一度」にあたるのだろう。孫と曾孫が継いだという事実は、その断絶をまたいだということでもある。

巨人のキャンプと、色紙の並ぶ壁

入口で目を奪われた壁に、戻る。

三角茶屋 豊吉うどん本店の店内。額に入った読売ジャイアンツの選手のサイン色紙が壁一面に並んでいる
壁の一面を埋める色紙。右下は原辰徳監督の「和と動」(2021年)

額はどれも同じ木枠で、色紙の脇に選手の写真が添えてある。サインの下に背番号が書き込まれているものが多い。8、18、13、5——数字だけが読み取れる。

右下の一枚には、はっきりと文字がある。「和と動」。原辰徳、2021年。中央下の色紙は「三角茶屋 豊吉うどん様」と宛名が入っていて、この店に向けて書かれたものだとわかる。

誰がいつ来たのかを、筆者は店の人に確かめていない。だから個々の選手名は書かない。ただ、この枚数である。一度や二度の偶然では、この壁は埋まらない。

背景には、宮崎とジャイアンツの長い関係がある。巨人が宮崎で本格的に春季キャンプを張るようになったのは1959年。長嶋茂雄が入団2年目の年で、王貞治が宮崎でデビューした年でもある。以来、宮崎市は巨人のキャンプ地であり続けている。2026年も2月1日から12日まで、ひなたサンマリンスタジアム宮崎を中心にキャンプが行われた。

60年以上、毎年2月になると球団がこの街にやってくる。選手もスタッフも、その間はここで暮らす。朝6時から開いていて、安くて、腹が満ちて、噛む力を使わない店が、街にある。

壁の色紙は、その積み重ねの結果だ。奥野豊吉が市場と工場の人のために開けた朝6時が、いつのまにか、日本一有名な球団の選手たちの朝も受け止めていたことになる。

1932年に工員と市場の人のために開いた朝6時の店が、1959年から通うようになった球団の選手たちの朝も受け止めている。店は一度も客層を狙い直していない。ただ同じ時間に開け続けただけだ。

店を出る

外に出ると、空はまだ曇ったままだった。三角の屋根が、灰色を背にして立っている。

コシという物差しを持ってこの店に入った人間が、持ち帰るものはたぶん二つある。ひとつは、麺のかたさは優劣ではなく設計だという当たり前の事実。もうひとつは、その設計が誰のために選ばれたのかという話だ。夜明け前から働く人の体に合わせて、麺は柔らかくなった。それだけのことだが、それがこの県のうどんを決めている。

100歳までうどん屋をやりたかった男が建てた店で、朝の一杯が今日も出ている。

たわむ麺だった。

KOTOHAREの視点:宮崎市の「三角茶屋 豊吉うどん」は昭和7年(1932年)創業。創業者の奥野豊吉は明治17年生まれ、武士の家の出で、50歳のときに鐘紡の製糸工場前・市場近くに店を開き、朝6時から売った。客は工員と市場の人。宮崎うどんが柔らかいのは、多加水の生地と、1回目で茹で切ってしまう二度茹でによる。噛む力を使わせない麺は、夜明け前から働く体のために選ばれた設計であって、コシの不足ではない。豊吉は一人息子を戦争で亡くしたあとも店に立ち、昭和50年に「100歳までやりたい」の意で「百才・豊吉うどん」を開き、97歳まで働いた。店は孫、曾孫へと継がれ、市内8店舗。1959年に始まった巨人の宮崎キャンプは今も続き、壁は色紙で埋まっている。

店舗情報

店名
三角茶屋 豊吉うどん 本店
住所
〒880-0934 宮崎県宮崎市大坪東3丁目1番3号
TEL
0985-51-9015
営業時間
6:00〜19:30
定休日
1月1日
駐車場
専用無料36台
地図
Googleマップで見る
メニュー
えびうどん 440円/ごぼううどん 370円/天玉かうどん 410円/肉うどん 510円/選べる朝うどんセット 330円(平日6:00〜10:00)ほか。価格は店舗により異なる
店舗数
宮崎市内8店舗
備考
セルフサービス。営業時間・定休日・メニュー・価格は変更の場合があるため、来店前に店の情報をご確認ください
この記事の出典 店舗情報・メニュー・価格:宮崎市観光協会「宮崎市観光サイト」。
創業年・奥野豊吉の経歴・歴代店主・だしの構成:三角茶屋 豊吉うどん公式サイトおよび同店を取材した公開記事。
宮崎うどんが柔らかい理由(多加水麺・二度茹で)と朝うどん文化の成り立ち:竹之山愼一氏の解説による。
うどん店舗数:タウンページ(2021年)をもとにした都道府県別集計。
巨人の宮崎春季キャンプ:宮崎市観光協会および日本野球機構の公開情報。
※店内写真に写り込んだ車両のナンバープレートは処理しています。

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この記事を書いた人

KOTOHARE編集部

30代・食いしん坊の編集部員。コンビニの新商品から町の老舗まで、うまいものなら何でも食べる雑食派。今夜の晩酌のつまみを考えるのが日課です。

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