この記事の要点
- 横丁の多くは戦後の闇市から始まった。だが「ハモニカ横丁」「思い出横丁」という名前は、できた当初からあったものではない。
- ハモニカ横丁の名は、評論家・亀井勝一郎が店の並びを「ハーモニカの吹き口」に例えたことから広まったとされる。1962年ごろ、闇市の誕生から15年ほどあとという説が知られるが、いつ・どこで言ったのかには諸説ある。
- 新宿の思い出横丁の前身は「ラッキーストリート」と呼ばれた闇市で、「ションベン横丁」は後からついた俗称だった。横丁の名前は、たいてい外から付けられている。
20年ほど前、吉祥寺のハモニカ横丁にある店でアルバイトをしていた。
駅の北口を出て、すぐ。人がすれ違うのもやっとの細い路地に入り、頭の上の看板をくぐって店に向かう。毎日その道を通って出勤していた。仕込みのにおいも、昼と夜でまるで別の顔になる路地の空気も、体のほうが覚えている。
だから、横丁のことは分かっているつもりでいた。戦後の闇市が始まりで、その名残がいまも残っている。その程度の理解で、とくに疑問も持たなかった。
ところが、あるとき、ふと引っかかった。
そもそも「ハモニカ横丁」という名前は、誰がつけたのか。闇市で商売をしていた人たちが、自分たちでそう名乗ったのだろうか。
考えてみると、知らなかった。毎日くぐっていたあの路地の名前の出どころを、一度も考えたことがなかった。それで、調べてみることにした。
横丁とは何か。3行でいうと
横丁とは、戦後の闇市や露店のマーケットを起源とする、細い路地の商店街・飲食店街のことだ。
東京なら、吉祥寺のハモニカ横丁、新宿西口の思い出横丁がよく知られている。
ただし、それぞれの「名前」は、できた当初からあったものではない。
二つの横丁のスペック
| 横丁名 | 所在地 | 起源 | 現在の名前の由来 | 名付けた主体 | 別名・旧名 |
|---|---|---|---|---|---|
| ハーモニカ横丁 (通称ハモニカ横丁) |
東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目(JR吉祥寺駅北口すぐ) | 終戦直後(1940年代後半)、駅前の強制疎開の跡地にできた闇市 | 小さな店がぎっしり並ぶ様子を、ハーモニカの吹き口に例えた | 評論家・亀井勝一郎の言葉がきっかけとされる。ただし「1962年の市政講座で」「飲み屋でのつぶやきを商店会の役員が聞いて」「誰が言うともなく」など諸説あり | 「ハモニカ横丁」「ハーモニカ横丁」の表記が混在 |
| 新宿西口 思い出横丁 |
東京都新宿区西新宿1丁目(新宿駅西口すぐ) | 1946年(昭和21年)ごろ、焼け野原の西口に出現した露店商のマーケット(闇市) | 不明(確認できる資料が見つからなかった) | 不明 | 旧称「ラッキーストリート」「安田組マーケット」、俗称「ションベン横丁」 |
※表は横にスクロールできます。出典:武蔵野市立図書館「ハーモニカ横丁 今昔」(2026年7月改訂版)、東京都公式観光サイト GO TOKYO、新宿西口商店街振興組合の公式サイト(いずれも2026年10月9日確認)ほか。確認できなかった項目は「不明」とし、推測では埋めていない。
なぜ「ハモニカ」なのか
ハモニカ横丁のルーツは、終戦直後の吉祥寺駅前にできた闇市である。戦時中、駅前は空襲による延焼を防ぐために建物が取り壊され(強制疎開)、空き地になっていた。そこに戦後、露店が立ち並ぶようになった。いまも100軒近い小さな店がひしめいているとされる。
名前の由来としてよく知られているのが、評論家の亀井勝一郎の話だ。吉祥寺に住んでいた亀井が、小さな店がぎっしり並ぶさまを、楽器のハーモニカの吹き口に例えた。それが広まって「ハーモニカ横丁」になった、というものである。
ところが、調べていくと、話はそれほど単純ではなかった。
武蔵野市立図書館がまとめた資料「ハーモニカ横丁 今昔」によると、伝わっている由来は一つではない。昭和37年(1962年)の市政講座で亀井が例えた、という説。飲み屋で亀井がつぶやいた言葉を、横丁の商店会の役員たちが覚えていて名付けた、という話。そして、誰が言うともなく「ハモニカ横丁」とも「ハーモニカ横丁」とも呼ぶようになった、という説。同じ資料は「様々に伝えられています」とまとめている。
しかも図書館は、その市政講座の記録そのものを確かめている。1962年の市政講座「都市美について」の講演録は当時の市報に連載されていて、結論の章には駅前に戦後のバラックの店が並ぶという文章がある。だが「ハーモニカ」という言葉は出てこない、という。
正直に言うと、ここで少し笑ってしまった。名前の由来を調べに行ったら、「誰がつけたのか、実はよく分からない」という答えが返ってきたのだから。
それでも、はっきりしていることがある。どの説をとっても、名付けたのは闇市で商売をしていた人たち自身ではない。いちばん有名な説に従えば、闇市ができてから15年ほどあとに、外から来た文化人の比喩が名前になったことになる。
ちなみに表記は、いまも「ハモニカ横丁」と「ハーモニカ横丁」が混在している。図書館の資料も、それぞれの出典の表記に従って両方を使っている。どちらが正しいという話ではないらしい。この記事も、両方を使うことにした。
なぜ「ションベン」だったのか
新宿西口の思い出横丁の始まりも、闇市だった。
新宿西口商店街振興組合の公式サイトによれば、昭和21年(1946年)ごろ、西口一帯は空襲で焼け野原になっていた。そこに戸板一枚で区切った露店商のマーケット、統制経済の時代の闇市「ラッキーストリート」が出現した。これが思い出横丁の前身だという。闇市を研究しているフリート横田氏は、そのバラック街を「安田組マーケット」(「ラッキーストリート」とも)と書いている。安田組は、当時この一帯を仕切っていた組織の名前である。
そして、この横丁にはもう一つ、よく知られた呼び名がある。「ションベン横丁」だ。
由来は、トイレの設備が乏しかった時代に、酔客が路地で用を足したことからだとされる(諸説ある)。場所の実態を、そのまま呼び名にされた格好である。
これは、当事者が誇って名乗る名前ではない。外から付けられた、明らかに揶揄を含む呼び名だ。いまは「思い出横丁」の名前が定着し、ションベン横丁と呼ぶ人は少なくなった。なお、大阪・十三にも同じ俗称で呼ばれる横丁があるが、こちらとは別の場所である。
では「思い出横丁」という名前はいつ、誰がつけたのか。これが、確認できなかった。公式サイトにも書かれていない。フリート横田氏の記事に載った昭和46年(1971年)撮影の写真には、「まだアーチに『思い出横丁』の名は刻まれていない」という説明がある。分かるのはそこまでだ。
ひとつの場所が、ラッキーストリート、ションベン横丁、思い出横丁と、時代ごとに別の名前で呼ばれてきた。いま通りの入口に掲げられているのは、そのうち三つめの名前である。
食の話をひとつ。思い出横丁に焼き鳥屋やもつ焼き屋が多いのにも、闇市の時代の理由がある。公式サイトによると、昭和22年(1947年)ごろは統制品の取り締まりが厳しく、ラーメンや今川焼きに使ううどん粉などを扱う商売は苦労した。一方で、統制品ではなかったのが、進駐軍の牛や豚のモツだった。そのころから多くの店がもつ焼き屋を始め、いまも約60店ある飲食店のうち、半数以上が焼き鳥屋かもつ焼き屋だという。名前は変わっても、串の煙のほうは闇市の時代から続いている。
なぜ、名前は外から来るのか
ここからは、筆者の解釈である。
闇市や露店のマーケットは、誰かが計画して作ったものではない。終戦直後の混乱のなかで、焼け跡に自然に生まれた場所だ。そこで商売をしていた人たちにとって、その日を生き延びることのほうが大事で、場所に名前をつける必要すらなかったのではないか。
名前が必要になるのは、外の人間がその場所について語り始めたときだ、と考えることもできる。文化人が比喩を口にしたとき。酔客のふるまいを揶揄する言葉が広まったとき。雑誌や観光案内で紹介されるとき。中にいる人には「いつもの場所」で足りても、外から指さすには呼び名がいる。
そう考えると、横丁の名前は、その場所が「外から見られる対象」になった証拠だと読むこともできる。ハモニカ横丁は、評論家の比喩とされる言葉から。ションベン横丁は、酔客への揶揄から。どちらも、自称ではなく他称から始まっている。
もちろん、外から来た名前を、中の人たちが引き受けてきた面もあるだろう。ハモニカ横丁の由来の一説では、亀井の言葉を覚えていた商店会の役員たちが名付けたとされる。思い出横丁も、いまは入口の看板にその名を大きく掲げている。外から来た名前を、内側が自分の看板にしていく。名前が定着するというのは、たぶんそういうことなのだと思う。
場所は、自分では名乗らない。誰かが名前をつけて、その名前を、やがて場所のほうが引き受ける。
横丁は、なぜいまも残っているのか
吉祥寺駅の周辺は、戦後、再開発で大きく姿を変えてきた。その中で、ハーモニカ横丁はいまも戦後すぐのころの面影を残している。
なぜ残ったのか。駅前の一等地なのだから、横丁を取り壊して商業ビルを建てる話は何度も持ち上がった。だが、細かく分かれて複雑になった土地の権利の整理が折り合わず、実現しなかった、と言われている。もしそうだとすれば、横丁は意図して保存されたというより、壊すのが難しかったから残った、という側面があることになる。(この点は、公的な資料では確認できなかった。あくまで「言われている」話として読んでほしい)
そして、いまの横丁は、戦後の姿がそのまま残っているわけでもない。東京都の公式観光サイト GO TOKYO は、ハモニカ横丁の立ち飲み屋や小さな料理屋は「そのほとんどが1990年代以降に開店した店」だと紹介している。闇市の骨格の上に、後の時代の人たちが新しい店を重ねてきた。いま多くの人が思い浮かべる「飲み屋街としての横丁」は、比較的新しい姿なのだ。
筆者が働いていた20年ほど前も、まさにその途中だったのだと思う。当時は、自分が新しい横丁の一部にいるなんて考えもしなかったけれど。
2025年12月には、横丁の誕生80周年を記念するイベントが開かれ、ハーモニカ横丁をモチーフにしたデザインマンホールがお披露目された。武蔵野市観光機構によると、このマンホールは翌2026年、「日本マンホール蓋アワード2026」で大賞と新人賞をダブル受賞している。闇市の路地が、いまは足元のマンホールにまでなって、街のシンボルとして扱われている。
知らないまま通った時間
20年前、毎日あの路地を通っていた。名前の由来など、考えたこともなかった。
調べてみると、その名前は、自分が働き始めるより40年ほど前に、一人の評論家が口にした比喩だったとされる。もっとも、それすら確かではなかった。名付け親として最もよく語られる人の講演録に、肝心の「ハーモニカ」の一語が見当たらないのだから。
場所は自分では名乗らない。誰かが名前をつけて、その名前のほうが、場所より長く残っていく。名付けた人の記憶があいまいになっても、名前だけは看板に残る。
今日もあの路地の看板の下を、誰かが名前の由来を知らないまま通っていく。
それでいいのだと思う。知らないまま通い続けた時間にも、ちゃんと意味がある。次に横丁で一杯やるときは、頭の上の看板を少しだけ見上げてみてほしい。その名前をつけたのは、たぶん、そこにいる誰でもない。
1990年代以降に開店した店が大半であること:東京都公式観光サイト GO TOKYO「ハモニカ横丁」(2025年10月31日更新)。
所在地・店舗数(100軒近く):武蔵野市立図書館の資料ほか、公開されている観光情報による。店舗数は資料により90軒余り〜約100軒と幅がある。
デザインマンホール:80周年記念イベントでのお披露目は、ライブドアニュース(ITライフハック、2025年12月)の記事、アワード受賞は武蔵野市観光機構のブログ(2026年7月21日)による。
思い出横丁の前身(昭和21年ごろの闇市「ラッキーストリート」)、もつ焼き屋が多い理由、飲食店約60店:新宿西口商店街振興組合 公式サイト(「新宿西口の歴史について」ほか、2026年10月9日確認)。「安田組マーケット」の呼称と1971年の写真の説明:フリート横田「飲み屋客は知らない…新宿・思い出横丁が直面している『3つの苦悩』」(現代ビジネス、2020年11月12日)。
※「ションベン横丁」の由来、「思い出横丁」という名称がいつから使われたか、ハーモニカ横丁が再開発されずに残った理由には、確かめられる一次資料が見当たらなかった。本記事では「〜とされる」「〜と言われている」の範囲で記し、名称の時期は書いていない。
※筆者のアルバイト経験は個人の体験であり、勤務先の店名や内部の事情には触れていない。写真に写り込んだ通行人の顔はぼかしている。
※「横丁の名前は外から来る」という見方は、筆者の解釈である。